失語症記念館
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第1回 10年の歳月

フリージャーナリスト
 安田容子

2006年02月:

■会話ができた!
「なに、これ?」
「お父さん宛に来た葉書よ」
「ああ、そうか」
「わぁ、すごい。お父さん、ちゃんと会話が続いたわね」
 寒中見舞いと書かれた葉書を指さし、失語症の父と2回も言葉のやりとりができて、とても喜ぶ私です。
「東京でもついに雪が降りましたね。寒くない?」
「うん」
 父は左腕でガッツポーズをして、にっこり笑いました。
 大丈夫、心配ないよ、このくらい、まだまだ元気だぞ・・・そう言ってるのね、今日はよく会話ができるなと、またまた嬉しくなる私です。

 こんな簡単な会話で嬉しいの?と、思われるかもしれませんね。あるいは、失語症の人でも話せるの?と、思うかもしれませんね。
 失語症は、脳梗塞などで脳の言語中枢が損傷を受け、読む、書く、話す、理解するという言葉にかかわる四つの能力に障害が残る症状です。その症状は、損傷を受けた部分と程度により人様々です。
 父の場合は、「痛い」「おお、寒い」「あー、うまいうまい」という反射的な言葉や、「はい」「そうそう」「そうですよ」「馬鹿だなぁ」など、ときどきパッと短い言葉が出ますが、文章として言うことはできません。でも、うまく行くと、2回も(!)会話が続くのです。ただし、いつ、どんなときに続くのかはわかりません。だから、言葉のやりとりが続いたときは、とても嬉しくなるのです。
 こちらの言うことは、父は分かっています。早口で言ったり、パッパッと話題を変えたりせず、「はい」「いいえ」で答える質問の仕方をして、父の顔を見ながらゆっくり言えば、だいぶよく分かります。
 失語症の人は、言葉には出せないけれど、意識や判断力や過去の記憶などは以前のまま保たれていますし、時間や場所の感覚もあるからです。
 叔父や叔母が来れば、名前は出ませんが、顔を見て「おおっ」っとにっこり笑います。その息子や娘の話になると、家系図を書いてもらって父に見せながら話しをすると、「うん、うん」と頷いています。時計を見て、午後9時になると、自分からベッドへ向かいます。
 毎朝、私が「おはようございます」と言うと、父は「おはようございます」「おはよう」「はよう」「うん」のどれかを言ってくれます。
 夜、寝るときは、「お休みなさい」と言う私の言葉に、「おやすみ」「はい、はい」「うん」のどれかが返ってきます。
 言葉だけでなく、顔の表情や身振り、手振りでも、思いは通じます。もちろん通じないときもたくさんあって、父は大声をあげて怒り、私も途方にくれて申し訳ない気持ちでがっかりすることも数えきれないほどです。
 そんな父との会話を続けて、思えば今年でちょうど10年になります。2年前、母が先に逝ってしまい、父と私の二人暮らしになりました。

■くも膜下出血と脳梗塞
 私の父は、大正12年9月3日、今も住んでいる東京・豊島区のこの家で生まれました。関東大震災の2日後ですから、祖母は余震の続くなかさぞかし大変だったろうなと思います。
 現在82歳、脳梗塞の後遺症で、右半身マヒ、失語症です。お酒もタバコもやらず、スポーツ万能、スリムな体型で血圧もむしろ低め。そんな父が10年前に突然、倒れるなんて、家族の誰も想像もしていませんでした。
 平成8年(1996年)6月6日の午前4時半でした。「お父さんが大変なの」という母の電話に飛び起き、庭づたいに両親の家に走っていくと、父がベッドの上で意識がなくガーガーとものすごく大きなイビキをかいていました。
 それを見た途端、「ああ、もうだめだ」と私はその場にしゃがみこんでしまいました。30数年前に祖母が亡くなったときとまったく同じ姿だったからです。
 実はその10日ほど前の朝、父が首の後ろが痛くて仕方ないというので、近所の小さな病院へ一緒に行きました。
「首の後ろが痛いのは、くも膜下の可能性があるんじゃないでしょうか」と聞く私に、大学病院から来ていたお医者さんはCTで撮った写真を見ながら、「特に異常はないですよ。風邪でしょう」と言って、風邪薬を処方してくれただけでした。
 こんな痛み方は風邪ではないはずという疑いが晴れない私は、大学病院へ行ってもう一度検査をしてもらったらと父にすすめました。でも、何時間も待たされるし、その大学病院からきたお医者さんが診てくれたわけでもあるしと母も言うことから、それより家で様子を見ながら静かに過ごしていた方がいいということになったのでした。
 ですから、意識を失ってガーガーと大きなイビキをかく父の姿に、私は「やっぱり」とヘナヘナと泣き崩れるばかりだったのです。その側で母がかけつけた救急隊の人たちにテキパキと答えていました。
 救急車で近くの大学病院に運ばれた父は、くも膜下出血と診断されました。そのまま亡くなるケースもあるのに、幸い父は翌日手術を受けて一命をとりとめました。
 でも、くも膜下出血で手術をした場合、2週間後くらいに手足のマヒや言語障害が起きる可能性があると言われたので、安心したのもつかの間また不安でいっぱいです。が、その時期が過ぎても、父には何の異常も起きず、話しもでき手足も動いて、回復は順調でした。
 しかし、3週間が過ぎると、まだ集中治療室にいるのに、家の近所の救急病院へ転院させられました。大学病院の脳外科に移してほしいと頼んでも、救急で入った患者にはそれはできないと断られ、仕方なく転院したのです。
 転院先でも父の回復は順調に進んでいました。「どうしてこんな事になったのだろうか」などと話したり、部屋の中を少し歩いたりして、「もうすぐ退院できるなあ」と父は喜んでいたのです。
 そんな矢先のある朝、病院から電話で父の様子がおかしいと連絡が入りました。母と二人で駆けつけると、父はベッドの上で手足をバタバタさせてもがいています。「脳梗塞が起きた」と言われたのです。
 脳梗塞は「魔女の一撃」と言われているそうですが、あまりの変わりように目の前の光景が信じられませんでした。しかし、悲しんでる間もなく、数日後から父は高熱が続き、髄膜炎が疑われ、元の大学病院へまた戻ることになりました。
 熱は下がり、髄膜炎の疑いも取れた父は、一言も発しません。こちらの言うことが果して分かっているのかもわかりません。ある日、民謡を流していると、父の指がトントンとベッドの柵を叩いているのを見ました。
 一ヵ月が過ぎようとしたころ、お医者さんから「もう脳外科で診ることは特にないから、別の病院へ移ってほしい」と言われました。まだ口から何も食べられず、鼻からチューブで栄養を摂っている状態なのに。仕方なく転院先を探して、お医者さんにいざ紹介状を書いてもらう段になると、「脳の写真を見直した結果、脳に水が溜まっているから手術をしなくてはいけない」と言うではありませんか。
 そして、脳に溜まる水をシャントと呼ばれる管を通して腹空に流す手術をしました。
最初の手術から3ヵ月近くたっていました。
 その頃の父は、やはり何も話さず、笑顔もなく、ベッドに寝たきりで自分で起きることもできません。私たちはいろいろと話しかけていましたが、どのくらい通じていたのかはわかりません。
 脳外科のお医者さんからは失語症の詳しい説明はなく、私たちも失語症ということが全然わかっていませんでした。今はまだ脳の機能が回復していないから黙っているだけで、きっと段々に言葉を取り戻すだろう、だからその準備のためにもどんどん話しかけた方がいいのだというくらいの理解しかありませんでした。
 軟らかかった右手も膨れて硬直していました。理学療法士がリハビリを始めてくれたのもやっとその頃からです。
 それから2ヵ月後の10月末、リハビリを目的にした病院へ転院しました。そこで初めて言語聴覚士による言語訓練が開始されたのです。でもその時間は午前中だったので、私はなかなかのぞくことができません。内容はわからないけれど、これでもう安心だと母も私も思ったのです。隣のベッドにいた方が、気管切開をして声が出ず、五十音図をあちこち指さしてお見舞いに来た人と会話しているのを見て、いつか父もそうやって話すことができるようになるのだと思っていました。
 その病院も3ヵ月で退院といわれ、倒れた翌年の2月、8ヵ月ぶりに父は家に帰ってきたのでした。
  右手は動かず、右足は装具をつけて、杖をついてわずか数歩、歩ける程度。家の中も車椅子での移動です。言語聴覚士の先生もいません。母と私の二人でどうやって父と会話していけるのだろうか。近くに住む二人の弟たちもその家族たちも、みんなどうやって対応していけばいいのか、分からなかったのです。
 でも、どんな状態になっても、父は父なのだから何とかなるわと、母も私もそう思って、一日が過ぎ、一年が過ぎ、気がつけば10年が過ぎようとしているわけです。
 父と暮らせば・・・・楽しく、哀しく、疲れて、怒って、笑って・・・これから少しずつ、そんなお話を書いていきたいと思います。

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